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神様百名山第五十一座・六甲山

紅葉の六甲山
紅葉の六甲山

今月の神様百名山は、関西の方にはお馴染みの六甲山です。

 

六甲山は、駅から登れる身近さが売りで、

いつ登っても、ハイカー(とも呼ばれないような、ラフな格好の観光の方が)がたくさんいらっしゃいます。

 

この山は、近代登山発祥の地、の一つとしても知られています。

 

近代登山っていう物々しい言葉が、一般的なのかどうかわかりませんが、

それなら、古代登山とか、中世登山という概念があったも良さそうです。

 

そもそも、日本人にとっての登山とは、

 

1・信仰や修行のための登山

2・狩猟や採集のための登山

 

の2つだった訳でして、

今でも、長野県小諸の親戚のおばあちゃんなどは、

私が、裏山で近代登山などしようものなら、

 

「おみゃーは、山に登って、手ぶらで帰ってくるだか?」

 

と、「みのねえことで、しょーがねいにぃ。。。」

 

(実のないことで、どうしようもない)

 

と呆れられたものです。

 

近代登山とは、昔の人からすれば、暇つぶし、穀潰しのどうにもならない所業、

(酷い言われようですが)と思われている節がございます。

 

 

そして、なぜ、六甲山が近代登山発祥の地として知られていると申しますと、

ここ六甲山は、神戸市で発足した日本初のクライミングクラブ・RCC(ロック・クライミング・クラブ)の

トレーニングの場所だったからなのですね。

 

Wikipediaより

ロック・クライミング・クラブ (Rock Climbing ClubRCC) は、1924年大正13年)に結成された、日本初のロッククライミングを目的とする山岳会。藤木九三が中心になって、神戸市で発足した(会員であった水野祥太郎の文章によれば、結成されたのは雪彦山)。六甲山の、藤木が命名した芦屋ロックガーデンなどの岩場をゲレンデとして活動し、日本の登山界に初めてロッククライミングを紹介する役割を果たした。1925年(大正14年)、北穂高岳の滝谷を初登攀している。また、藤木が『岩登り術』という専門書を自費出版し、後年には水野祥太郎も同名の著書を発刊している。加藤文太郎も所属していた。1933年昭和8年)に解散した。

 

リーダーの藤木九三氏が、岩登りのトレーニング場所=ゲレンデとして選び、命名したのが、

芦屋のロックガーデンと言われています。

 

 

藤木九三著『岩登り術』 AACH webより
藤木九三著『岩登り術』 AACH webより

 

そして、なんといっても、六甲山は、あの『孤高の人』、

伝説の単独登山者・加藤文太郎氏のトレーニング場所として、名高い山です。

 

神戸市須磨から六甲山全山縦走して宝塚に下山し、その日のうちに自宅まで帰ったという、

100kmを超える踏破伝説があまりにも有名ですね。

 

当時、近代登山は、お金持ちのボンボンの暇つぶしの穀潰しの方の道楽(言い過ぎです)でした。

 

しかし、当時そういったことが経済的に可能だったのは、大学出身者など富裕層のごく一部で、

そういった方々が、会員制の高級ゴルフクラブ感覚で登山をしていたところ、

 

そこに、地下足袋スタイルで殴り込むをかけ、前人未到の記録を次々と打ち立てていったのが、

加藤文太郎だったわけです。

 

しかし、私がランドネ誌で書きましたのは、

加藤文太郎氏は、もともと体力的に優れた資質があったが、

神仏の山である六甲山を登ることにより、よりパワーアップしていったのではないか?

 

という仮設です。

 

古来から修験者が道場として選ぶ山には、

それなりの理由があります。

 

近代登山の隆盛によって、山に居づらくなった山霊たちが、

独りで山にわけ入り、山の声に耳を傾け続けていた加藤文太郎氏に、最後の望みをかけて、霊威を授けた。

 

というのが、私の妄なる仮説です。

 

トランス・ジャパン・アルプスを連覇し、望月将悟選手も、

(神様百名山・秋葉山にご登場いただきました)

 

「レースでも自分が育った赤石岳周辺に来ると、自然と力が湧き、力が漲る感じを覚える。」

 

ということをお話されていました。

 

これが単なるホームゆえの錯覚と捉えるか、

それとも山霊のご加護と捉えるか、

 

それは、その人が山に何を求めるのが、

すなわち、その人にとって山とは何か、

 

ということとも、関わってくる訳です。

 

 

六甲山をとおして、そういったことどもにも、

考えを巡らせられればと、思っております。

 

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YH